「成長」ってなんだろう。

僕はこの言葉が好きじゃなかった。

就職活動生時代、

「この会社なら成長できそうなので御社を志望します。」

というワンパターンな返答に違和感を持っていた。

成長したいのなら、どの環境でも成長できる。

上司からの「人間的に成長しなさい」という言葉に、

(都合のいい人間になれということか?)

そうも思った。

いまだったら、

なぜ「成長」という言葉が好きじゃなかったのかわかる。

それは定義が曖昧すぎたからだ。

「成長」

この言葉は、都合よく使われる側面があり、

定義が曖昧で、使う人によって意味合いが違いすぎて、

実態をつかめない。

だから僕は自分の中で定義をした。

成長とは、

目標に向けて、今まで自分が行動したことないことに

挑戦することで得られるフィードバックのことである、と。

これによって、
僕は成長という言葉がしっくりくるようになった。

この成長について、
僕や僕のコミュニティにいる人は、
「経済的成長」をとても意識していると思う。

しかし、
この成長は、諸刃の剣だ。

一度”成長”をしたら、
歯止めがきかないのだ。

どういうことかというと、
一度いい思いをしてしまうと、
次はもっといい思いをしないと、
何ら感じることがなくなってしまう。

いいお店に行けば、
もっといいお店にいかないと感動できなくなるし、

いい服を着れば
もっといい服を着たいと思う。

ちょっと稼げば、
もっと刺激のある稼ぎ方をしたいと思う。

上のステージをみれば、
もう下がりたくはないのだ。

知らなければ、それが幸せだという人がいる。

だから、一生知らないでいるという選択肢もあるのかもしれない。

けれど、
一度アクセルを踏んでしまったのであれば、
もうアクセルは弱められない。

どんどん素晴らしい人と出会い、
自分が知らなかった世界、
本やテレビでは知ることのできない世界を見て、
感覚が変わってきたのだ。

最近、僕は強くそのことについて感じている。

ただし、感覚が変わらなければ、実現しないのも事実。

だから、アクセルは踏んだら、
弱めてはいけないということだ。

「乗るか、反るか」

これしかないことを痛感している。

だから、波に乗らなければいけない。

乗るしかないのであれば、

ビッグウェーブに乗れるように

リスクを負わなければいけない。

それが、お金を使うということだと
思っている。

僕は、今スタートラインから一歩踏み出そうとしている。

必死。

だから、悠長なことは言っていられない。

けれど、この必死さによって、

勇気付けられる人がいるのであれば、

僕はもっと頑張ろうと思う。

もしあなたが成長の一歩を踏み出す”選択”をするのであれば、
後押しをしたいと思う。

踏み出したいけど、踏み出せない人がいるのであれば、
僕が歩んできた道を見てほしい。

きっと役にたつはずである。

そんなことを、東京の夜景を見ながら、
もっと素晴らしい夜景が世界にはあると知ってしまった僕は
考えたのでした。